演奏と即興、脳の柔軟性とフルートの練習
今回は即興演奏と、脳みその柔軟性について、簡単に考察してみます。
一つのことに熱中している時に良くおちいってしまうことは、周りが見えなくなってしまう、いわば脳みそが柔軟性を失ってしまうということです。
もちろん脳の柔軟性とは言っても、もともと脳みそは柔軟なものなので、あくまでも比喩表現です。頭の回転という意味です。
私は今、シュヴェードラーという、今から約100年くらい前に生きていたドイツのフルート奏者であり、シュヴェードラーシステムというフルートを開発した彼の書いたフルートの教本『フルートとフルート奏法』を翻訳することに熱中しています。
シュヴェードラーはライネッケのフルート協奏曲を献呈されたという点でも、当時のドイツのフルート界で大きな役割を果たしていた人物なのですが、残念ながらこんにちではほとんど忘れ去られています。
彼はもともとオーケストラで現代のベームフルートも吹いていたのですが、音色が気に入らずにのちにゲヴァントハウスの首席奏者になってから、独自のフルートを開発してゆきます。
開発の過程は彼の教本の『フルートの起源と発展6 シュヴェードラフルートの開発』に書かれています。
このところ毎日、空いた時間にこの本を読んで家に帰ってから寝る前にドイツ語を日本語に置き換えるという作業をしているのですが、このドイツ語から日本語に置き換えるという作業は、ドイツ語をそのまま理解するという作業よりも10倍近く難しく感じます。
残念ながら私の専門はフルートであり、語学に関してはそこまで専門的に学んだわけではないので、翻訳という作業はしゃべるよりもはるかに難しいなと痛感している次第です。
翻訳するという作業は、誰か作曲家が書いた曲を演奏するという作業に似ています。
逆にここに書いているような、自分が思ったことをブログに書くという作業は、いわば即興演奏のようなものです。
知識と鍛錬の結晶である「演奏」という行為とは少し違い、即興演奏は常に楽しく限りなく自由で、自分がやりたいようにできる権利を与えられています。
しかし、即興ばかりやっているとだんだん飽きてきて、しっかりと造られた曲をやりたくなってくるので不思議です。
いくら自由な即興でも、いつもやっているとだんだんインスピレーションが尽きて飽きてしまい、全く別のことをやりたくなるのでしょうか。わがままなものです。
ここに書いているような記事を書くと、また、翻訳というなかなかしんどい作業でもやりたくなってきます。
翻訳をしていてドイツ語にはあっても日本語にはない表現を訳すときに、適切な表現が見つからず悶々と考え込んでしまう時があるのですが、パソコンの前から離れて例えば歩いていたりシャワーを浴びていたり、ソファーに寝そべってテキストを読んでいるときなどに、スッと良い表現が思い浮かんだりすることがあります。
かといって残念ながら、いつでも良い表現が浮かぶわけではないので、大半は足りない知恵から絞りだした謎の文章が書き殴られているので、時間をおいてだんだん修正するようにしています。
「外国語をしゃべる」ということに関しては、その国に住んでいれば時間が経てば自然とできるようになりますが、言葉を置き換える「翻訳」という作業には特別な技術や能力が必要なようです。
フルートの練習でも同じようなことが起こります。
例えばバッハのフルートソナタを演奏する時、私が行っているのはフルートを使ってバッハが書いた「音楽」というテキストを、いわば「バッハ語」から「フルート語」に翻訳するという作業です。
そして当然ながら「フルート語」には無い表現が「バッハ語」には書いてあり、そこをどうフルート語で表現するかが翻訳者=演奏者としての仕事であり、技量の差が出るところです。
この『どう表現するか』という解釈という作業を延々と続けていると、だんだんと「バッハ語」にどんなに素晴らしいことが書かれてあっても新鮮味がなくなり、翻訳するために必要な技術が自分になくて落ち込んでしまいます。そして落ち込んだことで本来の音楽の喜びを見失ってしまい、いわば脳の柔軟性をなくしてしまうことがあります。
抽象的なので具体的にもっとわかりやすく言うと、一つの曲をずっと同じやり方で練習していても脳みそへの刺激が薄れ、そうなると上達はしないということです。
だからと言ってちょっと練習したら散歩をしたり風呂に入ったりしても、なかなか深く集中して練習することは難しいでしょう。
物事はほどほどが肝心とよく言いますが、まさに練習も過ぎたるはなお及ばざるがごとしです。
できるだけ少ない時間で上達するためには、効率を最大限発揮するように意識することでしょうか。
例えば、あるエチュードをさらう際、吹く前に、「今から吹くエチュードは、この部分をできるように練習する」と目的をはっきりとさせて、それを意識しながら練習するのと練習しないのとでは、得られる結果ははっきりと違うと断言できます。
逆に言うと、上手な人はどれだけ自分の欠点と向き合ってそれを直そうと努力してきたかという差でしょう。
練習する際には、その練習をする目的を常にはっきりさせることが大切であると改めて思った次第です。
演奏と即興
一つのことに熱中している時に良くおちいってしまうことは、周りが見えなくなってしまう、いわば脳みそが柔軟性を失ってしまうということです。
もちろん脳の柔軟性とは言っても、もともと脳みそは柔軟なものなので、あくまでも比喩表現です。頭の回転という意味です。
私は今、シュヴェードラーという、今から約100年くらい前に生きていたドイツのフルート奏者であり、シュヴェードラーシステムというフルートを開発した彼の書いたフルートの教本『フルートとフルート奏法』を翻訳することに熱中しています。
シュヴェードラーはライネッケのフルート協奏曲を献呈されたという点でも、当時のドイツのフルート界で大きな役割を果たしていた人物なのですが、残念ながらこんにちではほとんど忘れ去られています。
彼はもともとオーケストラで現代のベームフルートも吹いていたのですが、音色が気に入らずにのちにゲヴァントハウスの首席奏者になってから、独自のフルートを開発してゆきます。
開発の過程は彼の教本の『フルートの起源と発展6 シュヴェードラフルートの開発』に書かれています。
このところ毎日、空いた時間にこの本を読んで家に帰ってから寝る前にドイツ語を日本語に置き換えるという作業をしているのですが、このドイツ語から日本語に置き換えるという作業は、ドイツ語をそのまま理解するという作業よりも10倍近く難しく感じます。
残念ながら私の専門はフルートであり、語学に関してはそこまで専門的に学んだわけではないので、翻訳という作業はしゃべるよりもはるかに難しいなと痛感している次第です。
翻訳するという作業は、誰か作曲家が書いた曲を演奏するという作業に似ています。
逆にここに書いているような、自分が思ったことをブログに書くという作業は、いわば即興演奏のようなものです。
知識と鍛錬の結晶である「演奏」という行為とは少し違い、即興演奏は常に楽しく限りなく自由で、自分がやりたいようにできる権利を与えられています。
しかし、即興ばかりやっているとだんだん飽きてきて、しっかりと造られた曲をやりたくなってくるので不思議です。
いくら自由な即興でも、いつもやっているとだんだんインスピレーションが尽きて飽きてしまい、全く別のことをやりたくなるのでしょうか。わがままなものです。
ここに書いているような記事を書くと、また、翻訳というなかなかしんどい作業でもやりたくなってきます。
脳の柔軟性とフルートの練習
翻訳をしていてドイツ語にはあっても日本語にはない表現を訳すときに、適切な表現が見つからず悶々と考え込んでしまう時があるのですが、パソコンの前から離れて例えば歩いていたりシャワーを浴びていたり、ソファーに寝そべってテキストを読んでいるときなどに、スッと良い表現が思い浮かんだりすることがあります。
かといって残念ながら、いつでも良い表現が浮かぶわけではないので、大半は足りない知恵から絞りだした謎の文章が書き殴られているので、時間をおいてだんだん修正するようにしています。
「外国語をしゃべる」ということに関しては、その国に住んでいれば時間が経てば自然とできるようになりますが、言葉を置き換える「翻訳」という作業には特別な技術や能力が必要なようです。
フルートの練習でも同じようなことが起こります。
例えばバッハのフルートソナタを演奏する時、私が行っているのはフルートを使ってバッハが書いた「音楽」というテキストを、いわば「バッハ語」から「フルート語」に翻訳するという作業です。
そして当然ながら「フルート語」には無い表現が「バッハ語」には書いてあり、そこをどうフルート語で表現するかが翻訳者=演奏者としての仕事であり、技量の差が出るところです。
この『どう表現するか』という解釈という作業を延々と続けていると、だんだんと「バッハ語」にどんなに素晴らしいことが書かれてあっても新鮮味がなくなり、翻訳するために必要な技術が自分になくて落ち込んでしまいます。そして落ち込んだことで本来の音楽の喜びを見失ってしまい、いわば脳の柔軟性をなくしてしまうことがあります。
抽象的なので具体的にもっとわかりやすく言うと、一つの曲をずっと同じやり方で練習していても脳みそへの刺激が薄れ、そうなると上達はしないということです。
だからと言ってちょっと練習したら散歩をしたり風呂に入ったりしても、なかなか深く集中して練習することは難しいでしょう。
物事はほどほどが肝心とよく言いますが、まさに練習も過ぎたるはなお及ばざるがごとしです。
できるだけ少ない時間で上達するためには、効率を最大限発揮するように意識することでしょうか。
例えば、あるエチュードをさらう際、吹く前に、「今から吹くエチュードは、この部分をできるように練習する」と目的をはっきりとさせて、それを意識しながら練習するのと練習しないのとでは、得られる結果ははっきりと違うと断言できます。
逆に言うと、上手な人はどれだけ自分の欠点と向き合ってそれを直そうと努力してきたかという差でしょう。
練習する際には、その練習をする目的を常にはっきりさせることが大切であると改めて思った次第です。